ライクラークの木の下で

 村のはずれにそびえ立つ、一本の大木。天にも届こうかという高さから、悠然と村を見下ろし続けるその木の下は、いつも二人の待ち合わせ場所だった。
 二人の時間はいつもそこから始まり、そしてそこで終わる。
 今日という新たな一日の始まりも、いつもと同じ、その木の下だった。
「ごめんごめん。待った?」
 いつものように小走りで木の下に近づきながら、男の子は目の前の人物に声をかける。
 彼の名は、ラゲット=ラダ=ラーディア。愛称はラグ。少年という言葉さえあてはまらないほど、幼い男の子である。
「おそーい! ラグったら、今日も遅刻だよ」
 ラグの言葉に、口をとがらせて答える女の子がいる。
 彼女の名は、エアリアル=エティ=エーダ。愛称はエリィ。少女と呼ぶにも少々早そうな、幼い女の子である。
「ま、いいわ。ラグはまだまだ子供なんだし、許してあげる」
「ひどいよ、エリィ。またそうやって僕を子供扱いして」
 エリィの言葉に、今度はラグがむくれた顔をする。
 たった三ヶ月早く生まれただけなのに、エリィは何かとお姉さんぶり、自分のことを子供扱いするのだ。
「だって、ラグは子供じゃない」
「そりゃそうだけど・・・でも、エリィだって子供だろ」
「違うの。私は『おねーさん』なんだから」
 思い切り息を吸い込み、胸を張ることで、エリィは少しでも自分を大きく見せようとする。
「それなら、僕だって!」
 同じように、ラグも息を吸い込み、胸を張る。
 しばらくして・・・
『プハッ!』
 二人はほとんど同時に息を吐き、その場に座り込む。そして・・・
「フ・・・フフフ・・」
「フフ・・・フフフフ・・・」
 何だか無性におかしくなって、顔を見合わせて笑い合った。
「フフ・・・ラグったら、野イチゴのように真っ赤な顔をしてたわよ」
「フフ・・・エリィだって、リンゴみたいな真っ赤な顔をしてたよ」
「フフフ・・・」
「フフフフ・・・」
 ひとしきり笑った後、どちらからともなく立ち上がると、手を取り合って、走り出す。
「今日は何処へ行こうか?」
「森がいいな。この時期なら、いろんな木の実が落ちてるはずだから」
「そうだね。そうしようか」
「うん。そうしましょ」
 あっという間に、二人の姿は森の中へと消えて行く。
 大好きな友達と、親切な村の人と、いつもと同じ平和な景色と、森や川での、ちょっぴりの冒険・・・それは満ち足りた毎日だったが、いつの頃からか、その繰り返される日常は、幼い二人の冒険心を満たすには、少々心許なくなってきていた。
 そんなある日・・・
「最近、あんまり面白いことがないね」
「ホント。最近、面白いことがないわね」
 いつもの木の下に並んで座り込み、ボーッと空を眺める二人に、声をかけてくる人物がいた。
「おや、ラグにエリィじゃないか」
「あ、ラジエラ婆さん」
 小さな村なので、まったく知らない人物というのはいない。だが、彼女は二人にとって、とても親しい人物だった。
 村で一番の長生きで、前に聞いた話だと、もう百歳をとっくに越えているらしい。
 時々二人して訪ねると、しわくちゃの顔一杯に笑顔を浮かべて、とても美味しいクッキーを焼いてくれる、優しいお婆さんだ。
「今日は、何処にも遊びに行かないのかい?」
「うん。何だか飽きちゃったんだ」
「そうなの。何だか飽きちゃって」
「そうかい。まぁ、ここは小さな村だからね。もう少し大人になれば、遠くに旅をすることもできるだろうが・・・今のラグ達じゃ、まだ無理だしねぇ・・・」
「そうなんだ」
「そうなのよ」
 二人して顔を見合わせ、小さくため息をつく。
 以前に一度、二人は遠くに行ってみようとしたことがあった。だが、子供の足でそれほど遠くまでいけるわけもないし、無論準備なんてほとんどしていなかった(唯一の所持品は、おやつのクッキーが数枚だけだった)ので、結局夜にはお腹が空いて、泣いて戻ってきてしまったのだ。
 流石にもう一度、そんな目に遭いたいとは、二人とも思わない。
「そうだ!」
 不意に、黙り込んで何やら考えていたラジエラ婆さんが、大きな声をあげた。
「二人とも、『願樹祭』って知ってるかい?」
「ガンジュ・・・?」
「何、それ?」
「このライクラークの木は、別名『願いの木』とも呼ばれていてね。二十年に一度、どんな願い事でも叶えてくれるんだよ」
『この木が霏』
 二人して声をあげ、今まで自分たちが寄りかかっていた木を、まじまじと見上げる。
「そして、今年がその二十年に一度の年なんだよ。もう何日かしたら、祭りの準備が始まるはず・・・」
 ラジエラ婆さんの言葉に、二人の瞳がキラキラと輝き出す。
「二人が生まれてから、初めての願樹祭だ。ゆっくりと時間をかけて、いいお願いを考えておくんだね」
 二人は既に、心ここに在らずといった感じで、その大木に見入っている。それを見て、嬉しそうに目を細めると、ラジエラ婆さんは、ゆっくりと散歩の続きを再開した。
「すごいね」
「うん。すごい」
「そんなこと、知らなかったね」
「うん。そんなの、全然知らなかった」
「お願い事・・・考えなきゃ!」
「うん。考えましょ! 素敵な素敵な、お願い事!」
 その日から、二人は願い事を考え始めた。ラジエラ婆さんの話によると、願い事は一人一つしかできなくて、祭りの日に願い事をライクラークの木の幹に彫り込み、最後まで消えなかった願いだけが叶うということらしい。
 沢山の人が願い事を彫り込むわけだから、背の低い自分たちが彫り込めるスペースは、
自然と限られてしまう。二人にとっては、願い事を考えることと同時に、それをいかに短
い言葉で表すかも、大切な課題になっていた。
「どんな願い事がいいかな・・・やっぱり、『おかし たくさん』とか・・・」
「そんなの駄目よ。『おとなになりたい』の方がいいわよ」
「でも、大人になら、お願いしなくてもなれるよ?」
「それには、沢山の時間がかかるでしょ。私は、今すぐ大人になりたいの。そうすれば、お菓子だって沢山買えるわよ」
「うーん。やっぱり、もっとよく考えようよ」
「そうね。もっとよく考えて、それで決めましょ」
 二人は、同じお願い事をすることに決めていた。そう都合良く二人分のスペースが確保できるかもわからないし、一人ずつ別々のお願いをするよりも、二人で同じお願いをした方が、叶う確率が高いと考えたからだ。
 だが、その取り決めが、二人の間に、徐々に溝をつくっていってしまった。
「そんなお願い嫌だよ! 僕のお願いの方がいいに決まってる!」
「そんなことないわ! 私のお願いの方がいいに決まってる! 私はお姉さんなんだから」
「そんなの関係ないよ! 僕のお願いの方がいいんだ!」
「私のよ!」
「僕のだ!」
 純粋であるが故に、どちらも一歩も譲らなかった。
 子供であるが故に、相手のことよりも、自分のことを考えてしまった。
 どちらも勢いだけで、その口から相手の悪口が、止めどなく溢れ出していく。
 相手のことなど考えられない。ただ、心の片隅にあった小さなわだかまりが、ここぞとばかりに吹き出し続ける。
 そして・・・
「僕はエリィじゃないんだ! 僕は・・・僕はエリィとは違うんだ!」
 ラグのその叫びは、エリィに小さな胸に、深々と突き刺さった。その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「どうして・・・どうしてそんなこと言うの?どうして・・・」
 ずっと、同じだと思っていた。泣くのも笑うのも、いつも一緒だった。いつでも、どんなときでも・・・いつまでも二人は一緒だと、そう思っていた。そう思っていたかった。
 でも、違うんだね・・・私とラグは、違うんだね・・・
 拭っても拭っても、止めどなく涙が溢れてくる。その歪んだ視界の先には、両の拳を握りしめ、うつむいているラグの姿があった。
 ラグは、何も言わない。ただ黙って、その場に立ち尽くしている。
「ラグの・・・ラグの馬鹿!」
 大声でそう叫ぶと、エリィは走り去ってしまった。一度も振り返ることなく、その姿は、建物の影に消えていく。
「・・・・・・」
 エリィが走り去るとすぐ、ラグの瞳からも、涙が溢れてきた。
 理由もわからず、ただ悲しいという想いだけが、どうしようもなく溢れ出してくる。
「・・・馬鹿・・・」
 その小さな呟きが、果たして誰に向けられたものだったのか・・・それがわかるほど、
ラグはまだ大人ではなかった。
 そしてその日から、二人は『二人』ではなくなった。エリィは家に閉じこもるようになり、滅多に外には出てこなくなったのだ。
 だから、ラグは今日も一人で、ライクラークの木の下に座り込んでいる。
『ラグの・・・ラグの馬鹿!』
 エリィの言葉と泣き顔が、目に焼き付いて離れない。どれほど振り払おうと努力しても、一瞬の後には、その光景がありありとよみがえってくる。
 エリィ・・・
 ラグは、激しく後悔していた。今までも喧嘩をしたことはあったし、エリィの泣き顔を見るのも、初めてではない。
 エリィが泣いているとき、ラグは必ず、その頭を優しく撫でて、微笑みかけていた。その時だけは、自分がエリィの『お兄さん』になっていたのだ。
 そうすると、泣きやんだエリィが、照れくさそうに微笑み返してくれる。その顔が、ラグはとても好きだった。
 でも・・・あの時は・・・
 目を閉じたラグの瞼の裏に、またあの時のエリィの泣き顔を浮かんでくる。
 あの時のエリィの泣き顔は、自分が知っているどんなエリィとも違っていた。生まれたときから一緒にいたのに、あんなに悲しそうな顔は、今まで見たことがない。
 その原因が自分にあることは、ラグにもわかっている。自分の言葉が、こんなにもエリィを傷つけているのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
 謝らなきゃ・・・
 その思いは、日増しに強まっていく。だが、その機会を、ラグはずっと得られずにいた。
 今までなら、どんなに激しい喧嘩をしても、次の日はまたこの木の下で会い、言葉を交わしていた。そして、いつもの二人に戻っていたのだ。
 だが、エリィは現れない。三日たっても、十日たっても・・・朝靄の立ちこめる頃から、夕日が沈みきってしまうまで待っていても、エリィは決して、その姿を見せなかった。
 それでも、ラグはひたすら待ち続けた。自分からエリィの家に出向いて謝ろうとも思ったのだが、家の前につくと、どうしても扉をノックする勇気が出ないのだ。
 自分の手で扉をノックして、もしエリィが出てこなかったら、もう二度と、元には戻れない・・・そんな思いが、ラグを臆病にしていた。そして、それを克服する勇気を求められるほどには、ラグはまだ、傷つくことに馴れてはいなかった。
 そして・・・結局何の進展もないまま、時は『願樹祭』の前日を迎える。
 その日もラグは、朝からずっと、エリィを待ち続けていた。彼女が現れることを、『願いの木』ライクラークに祈りながら、ただひたすら、待ち続けた。
 昼が過ぎ、やがて夜のとばりが降りる。いつもなら、そろそろ帰る時間だったが、その日は、ラグはそのままそこに居続けた。
 エリィと一緒に願い事を刻むには、今日が最後のチャンスなのだ。明日には、ここは人で溢れかえる。そうなれば、もはやエリィを待つことはできなくなってしまう。
 祭りの準備は、昼間のうちに終えられているため、辺りに人の気配はない。ただ静かな闇だけが、全てを満たしている。
 冷たい秋の風が、ラグの体を容赦なく吹き付ける。
 エリィ・・・
 ラグの意識が、次第に朦朧としたものになっていく。
 許してくれなくってもいいんだ。ただ、もう一度・・・もう一度会いたい・・・会って、謝りたいだけなんだ・・・
体はもはや、寒さを感じなくなってきている。指先がしびれて、思うように動かない。
 もう一度・・・エリィと・・・二人・・・
「ラグ・・・」
 沈みかけた意識をを呼び覚ますかのように、何処か遠くの方から、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
「ラグ・・・」
 その声に誘われるように、ラグはゆっくりと、重い瞼を開く。すると・・・。
「エリィ・・・来てくれたんだね・・・」
 目の前の暗闇に、見覚えのある姿が、ぼんやりと浮かんで見えた。ずっと会いたかった、女の子の姿が。
「ラグ・・・私ね。引っ越すの。ずっとずっと、遠くの村に・・・だから、これが最後なの。最後だから・・・ここに来たの」
 口調も表情も優しいけれど、その声は、酷く悲しげに聞こえた。だからこそ、それが嘘ではないことが、ラグにはわかる。
「そんな・・・嫌だよ。エリィと会えなくなるなんて、そんなの嫌だ・・・」
「我が儘言わないの。お姉さんの言うことは、きちんときくものよ・・・」
 ほんの一瞬、エリィの声に、以前の快活さが戻る。その顔が、温かく微笑む。
「私はラグじゃないの・・・だから、ずっと一緒にはいられないのよ・・・」
「嫌だ・・・嫌だよ・・・」
 ラグは必死で、その手を伸ばそうとする。だが、寒さでかじかんだ腕は、思うように動かない。
「私、ラグのこと忘れない・・・いつまでも、ずっと、ずっと・・・」
 エリィの姿が、少しずつ闇に解けていく。
「だから、ラグも忘れないで・・・私のこと、忘れないで・・・」
「忘れないよ。忘れないから、だから・・・」
「さようなら・・・ラグ・・・」
「待って! 待ってよ! エリィ! エリィ!」
 自分の叫びが、エリィへの想いが、何もかもが解けて消えてしまう・・・ぽっかりと胸に開いた穴に吹きすさぶ風が、自分の心さえ、冷たく凍てつかせていく・・・
「ハッ霏」
 目が覚めると、ラグは自分のベットの上にいた。脇にある窓から射し込む暖かい太陽の日差しが、今が朝であることを如実に物語っている。
 夢・・・?
 釈然としないものを感じながらも、ラグは体を起こそうとする。すると、途端に寒気が走り、頭ががんがんし始めた。
「ハ・・・ハ・・・ハックション!」
 くしゃみと共に、鼻水まで垂れてきた。どうやら、風邪をひいてしまったらしい。
「ラグ? 起きたの?」
 下の方から声がすると、次いでトントンと階段を登る音が聞こえてきた。
「ラグ。入るわよ」
 一言断ると、声の主である母エミリアは、ラグの返事を待たずに、その扉を開けた。
「お母さん・・・」
 そう言うラグの声は、明らかに元気がない。
「やっぱり風邪をひいたのね。あんな夜遅くまで、木の下に座っていたりするからよ」
「・・・お母さんが、僕を運んでくれたの?」
「ええ。そうよ」
 母親のその言葉に、ラグは少し安心した。
 やっぱり、ただの夢だったんだ・・・
「その様子じゃ、お祭りには行けないわね」
「お祭りって・・・」
「『願樹祭』に決まってるでしょ」
 母親のその言葉に、ラグの朦朧としていた意識が、一気に覚醒する。
「『願樹祭』!」
 叫んで、ラグは飛び起きると、急いで着替え始めた。そんなラグの姿に、エミリアは驚きの表情をする。
「ラグ、あなたまさか・・・『願樹祭』に行くつもりじゃないでしょうね霏」
「勿論、そのつもりだよ」
「馬鹿なこと言うんじゃありません! その体で、お祭りなんて行けるわけないでしょう!」
 いつもならすくみ上がってしまう母親の怒鳴り声も、今日のラグには通用しない。その耳に届いているかどうかさえ、怪しいものだ。
 素早く着替えを終えると、厳しい顔をした母親を尻目に、階段を駆け下りる。
 だが、最後でちょっとよたついてしまい、横から現れた父グレンに、あわやぶつかりそうになってしまった。
「おっとと。どうしたんだ、ラグ。そんなに慌てて」
「あなた!」
 すぐに母が、二階から駆け下りてきた。
「どうしたんだエミリア。朝から大声を出して」
「あなたもラグを止めて下さい! この子ったら、風邪でふらふらなのに、『願樹祭』に行くって言ってきかないんですよ!」
「そうなのか? ラグ」
 厳しい口調のエミリアと違って、グレンの口調は穏やかだった。
 ラグはただ黙ってうつむいている。
 足下はふらふらするし、自分でもわかるほど顔が火照っているから、自分が風邪をひいていることを誤魔化すことはできない。
 でも・・・
「僕は・・・行かなくちゃならないんだ」
 意を決して、ラグはその口を開く。
「どうしても・・・どうしても行かなくちゃいけないんだ!」
 顔をあげた自分の瞳を、グレンが覗き込んでいる。その目はあくまで優しげだが、何か強い意志が、そこには感じられた。
 だが、それに怖じ気づくわけにはいかない。ここで諦めるわけには、絶対にいかない。
 永遠と感じられるほど永い一瞬が、二人の間に流れる。そして・・・
「・・・わかった。行きなさい」
「あなた!」
「お父さん!」
 エミリアの非難の声と、ラグの歓喜の声が重なる。
「ありがとう!」
 静かに頷くグレンを尻目に、ラグは勢い良く家から飛び出していった。
「あなた、どうして・・・霏」
「エミリア・・・君の言いたいことは、わかっているつもりだよ。私だってラグの父親だ。
息子の体のことは、とても心配している」
「でしたら、何故?」
「あの子は・・・男の子だからね。男には、全てを賭しても護らなければならないものがあるんだよ。
 ラグは・・・そのために出ていったんだ。今ラグを引き留めることは容易い。布団に寝かしつけて、ずっと見張っていれば、それでいいのだからね。そうすれば、きっとすぐに風邪も良くなるだろう。
 でもね、ラグには、今しか護れない、大切なものがあるんだ。私たちの手でそれを失わせてしまったら・・・その傷は、もう誰にも癒やせはしないんだよ」
「それでも・・・私は納得できません。私はラグの・・・あの子の母親ですから」
 釈然とせず、沈んだ表情を見せるエミリアの肩を、グレンは優しく抱き寄せる。
「それでいいんだよ。母親の役目は、子供を心配してやること。そして、父親の役目は、子供を信頼してやることなのだから。
 ラグは本当に強くなった。あの子なら、きっと大丈夫だ。なにせあの子は、私たち二人の・・・私と君の、子供なのだから・・・」

 一方その頃、ラグはただひたすらに走っていた。目的地は・・・エリィの家。
「ハァ・・・ハァ・・ハァ・・・」
 息が苦しい。体中が燃えるように熱いし、喉は焼けたようにヒリヒリする。視界には白いもやのようなものがかかり、足は、今にももつれて転びそうだ。
 それでも、走ることをやめるわけにはいかない。今立ち止まってしまえば、それまでの全ての努力が、全ての想いが無駄になってしまう。
 それほど広い村ではないとはいえ、エリィの家の前にたどり着いたときには、既にラグは満身創痍だった。
「エリィ! エリィ!」
 もう、声をかけることを躊躇ったりはしない。大声を張り上げて、力の限り扉を叩く。
 だが、どれだけその名を呼んでも、扉を叩いても・・・エリィは、その姿を現さない。
「おや、ラグじゃないか」
 不意に背後から、声をかけられた。振り返ったそこには、ラジエラ婆さんがいる。
「エリィなら、今朝早く出たけど・・・見送りに、間に合わなかったのかい?」
「見送り霏 どういうこと?」
 ラグの言葉に、ラジエラ婆さんは不可解な顔をする。
「知らないのかい? エドニス・・・エリィの親父さんが、仕事が軌道に乗ったと言って、エリィとアルマ(エリィの母親)の二人を、ヤードラード村に呼んだんだよ」
「そんな・・・」
 ラジエラ婆さんの言葉に、ラグは愕然とした。ヤードラード村なんて、名前しか聞いたことのないような、とても遠くの村だ。大人だって、軽々しく行けるような距離じゃない。
 ましてや子供の自分には、たどり着くことはできないだろう。
 何にも・・・何にも言ってないのに・・・まだ何にも・・・何にも・・・
 昨晩のことが夢だったのか、それとも本当のことだったのかは、ラグにはよくわからない。でも、少なくともエリィは、自分に別れを告げに来てくれた。
 にもかかわらず、ラグは何も言えていない。そう、『ごめんね』の一言すら・・・
「そう言えば、ライクラークの木には、もう願い事を刻んだのかい?」
 ラジエラ婆さんの言葉に、ラグはハッとする。
 そうだ、あの木・・・!
 ラジエラ婆さんに挨拶をすることさえせずに、ラグはライクラークの木を目指して、全力で走り出した。
 既に体は限界だったが、想いだけは、溢れ出してとまらない。
 何度か転びそうになったが、すぐにライクラークの木の下に、ラグはたどり着いた。
 その幹には、既にぎっしりと願い事が刻まれている。
「エリィ・・・エリィ・・・」
 まるで呪文のように繰り返しそう呟きながら、ラグは自分の目線の高さの願い事だけを、順々に見て回る。エリィの身長は自分と同じくらいだから、願い事を刻むなら、この高さだろうと思ったのだ。
 程なくして、ラグの視線が、一つの傷の上でとまった。
 ごく簡単な、自分にも読める文字だけで、その傷はできている。
 何度も繰り返し同じ場所をなぞっていることが、これを刻んだ人間が、とても非力であっただろうことを、如実に物語っている。
「エリィ・・・」
 エリィと同じくらいの女の子は、他にも何人かいる。だが、ラグはその傷が、エリィの手によるものだと、確信していた。
 理由などない。そこにこめられた想いが、ラグの想いに呼応しているのだ。
 『ふたりいっしょに』
 そこには、そう刻まれていた。その傷の真下の地面が、少しだけ湿っているように思える。
 エリィはどんな想いで、これを刻んだんだろう・・・
 ラグの胸の中に、熱いものがこみ上げてくる。どうしても、この傷のすぐそばに、自分の手で願い事を刻まなければならないという想いが生まれるが、周りは既に傷だらけでとても自分の願い事を刻む場所は、残っていない。
 悔しくて、ただ悔しくて、涙が溢れてきた。ラグの心が、その瞳からこぼれ落ちる。
 そして、奇跡は起こった。
 ラグの涙がライクラークの幹を濡らしたその瞬間、エリィの願い事の周辺の傷が、みるみる塞がっていったのだ。
 これなら、刻める・・・僕の・・・二人の願い事が・・・
 ラグはポケットから、小さなナイフを取り出した。二人で願い事を刻むために用意していたものだから、エリィにも扱えるよう、柄が大きく、刃先の小さなものだ。
 それは大木の幹に傷をつけるには不向きだったが、それでもラグは、一生懸命に刻んだ。
 祭りが終わり、日が沈むまで、二人の願いを、深く、深く・・・ただひたすら、刻み続けた。
「ラグ・・・」
 背後から、優しく自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、暖かい笑顔を浮かべた、グレ
ンとエミリアがいる。
「これが・・・ラグのお願いかい?」
 自分のところまで歩いてきたグレンが、そこに刻まれた願い事を見て、そう問う。
「今、二人が一緒にいると・・・誰かが、悲しい思いをするんだ。だから・・・」
 そこまで口にすると、ラグは力尽き、その場に倒れ込んでしまった。その体を、エミリアが優しく抱き留める。
「お前はよく頑張った・・・だから・・・」
「おやすみ・・・ラグ・・・」
 両親の愛に包まれて、ラグの最初の試練は、その幕をゆっくりと閉じたのだった。

 そして、二十年の歳月が流れ・・・今日は、『願樹祭』の前日。
 昔とかわらず、悠然とその場に立ち続けている木の下に、一人の青年が、静かに佇んでいた。
 明日の祭りの準備もすっかり終わり、夜の闇と静寂だけが、辺りを満たしている。
「二十年、か・・・」
 小さく呟いた青年の背後で、不意に落ち葉を踏み締める音がした。
 青年が振り返ってみると、そこには、見たことのない・・・だが見覚えのある、一人の女性が立っていた。
 その女性は無言でライクラークに歩み寄ると、その場にしゃがみ込んで、そこに唯一残された傷跡を見つめる。
「貴方が・・・このお願いを?」
「そう。僕がこのお願いをしたんだ。いつかきっと、みんなが幸せになれるように・・・」
 女性と、青年の視線が重なり合う。そこには、決して忘れられない、忘れてはならない笑顔が浮かんでいる。
 お互いが求めてやまなかった、最高の笑顔が。
「ラグ!」
「エリィ!」
 抱き合う二人の横では、ただ静かに、ライクラークがその想いを讃えていた。
 『いつかかならず ふたりいっしょに』

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